渋沢栄一が駿河(現・静岡県)にやってきました。株式会社に似た商法会所を設立し、実業家に近い活動を始めました。商法会所について、後の栄一は謙遜もあって、「今から考えると笑うべきもの」と述べています。どこを笑うのか、笑いどころが読めませんが、後の近代的な株式会社に比べれば、初歩的なものだったということでしょう。
この静岡に行く前後から、栄一の娘の「うた」(後の穂積歌子)の追憶が出てきます。数え年で7歳の時に故郷の祖父たちと別れて静岡に来たと「うた」は言っており、住んでいた静岡の家の様子などを述べています。「うた」は記憶力が抜群で、後に栄一も親戚関係の詳しいことは「うた」の記憶が頼りになったと述べたほどです。
旧幕臣で職のない人は、この駿河に集まりました。栄一は自分の給料も減らして彼らに金銭を与えていたそうです。だから静岡時代の渋沢家は貧乏でした。ドラマでは渋沢家の貧乏の様子は「うた」の「家がちいせぇ」のセリフで描写がありましたが、むしろ皆で協力して儲けようとする明るい面が強調されたと言えるでしょう。『渋沢栄一一日一訓』の次の言葉を思い出します。
「人の和さえあれば、たとえ逆境に立ったとしても、成功するものである」(36ページ)
貧乏生活をしたことについて、後の栄一はひと言も語っていません。「俺は若いころ、こんなに苦労したんだぞ~」と、普通のオジサンがするような、貧乏自慢や病気自慢など、低レベルな自慢を栄一はしないのです。
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